たとえば、思いやりのない人間と思われたくない、家名を汚したくない、依存症の人本人も含め、すべて思いどおりにしたいなど。
隠れた動機に充分気づいていても、いい人はそれを表に出すことはない。
依存症の人が私たちの応援を得て自分の問題を自分で解決できれば、成長と喜びを味わうことができるが、救おうとする行為はそのチャンスを奪う。
自立の力を奪うことで、いい人は彼らの自尊心、自信、満足感の喪失を促しているのだ。
こんなふうに考えてみよう。
私たちは家族や友達が自分を傷つけるのを見ていられなくて、その苦痛から逃れるために救済しようとする。
それを繰り返さないではいられない。
状況をコントロールしたいと思う。
彼らを救えば、感謝と喜びが与えられるからそうしたいと思う。
自分の行動が助けになっているという証拠などひとかけらもないのに、また事態が悪化していることにも性々にして気づいていながら、それを続ける。
そう、大切な人が自滅的な習慣のとりこになっているのは事実だ。
だが、彼らを救おうとしている自分自身も「中毒」しているのだ。
思いやりがあり、誠実であれば助けになるかといえば、必ずしもそうではない。
妻を虐待する夫も、妻を心から愛しているのかもしれない。
虐待された妻は、夫が私を愛しているのはわかっている、と言うだろう。
しかし、愛を感じることと、愛することとの間には大きな違いがある。
さらに、彼女なしには生きられないと思うことは、彼女を愛することにはならない。
愛は本来、相手を解放するもので、虐待はしない。
所有し、コントロールせずにはいられないような、中毒的で虐待的な欲求は、愛ではない。
依存症の人を救う中毒に陥っている私たちも、ちゃんと気づく必要がある。
依存症の人を心から心配しているとしても、救済は愛ではない、間違いだ。
依存症の人も自分もこれ以上傷つけたくなかったら、今すぐ救済中毒から立ち直り、人を救おうとすることをやめなければならない。
救済をやめる第一歩は、やめると決心することだ。
その決心を確かなものにするために、紙に書いてみよう。
救済をやめれば、これ以上問題を悪化させることも、頭にくることもない。
そのために相手は糸の切れた凧のようになって、自滅への坂道を転げ落ちるかもしれない。
そんな家族や友達のことが、やはり心配だろうが、救済をやめるとは見捨てることではない。
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